よろづやの歴史 よろづやの歴史 | よろづやの歴史 | 其の三:戦時中の困難創業の頃明治年間〜昭和初期戦時中の困難=戦後〜平成にかけて
 その2年後に太平洋戦争が勃発、戦時下では不要不急の旅行は禁止され、物資は配給制となり、旅館は仕入などに様々な制限を受けるようになりました。

 また、戦時中は国家要請により疎開の学童を受け入れました。
当時の平穏村(現山ノ内町)で受け入れた学童疎開は4301人で、村の人口が6500人でしたから、人口が倍近くになりました。
湯田中温泉地区に疎開したのは、足立区千寿第七小学校の児童で、9軒の旅館に分宿しました。
疎開児童への食料配給は、県庁で行っていましたが、不足がちなため、旅館の番頭さんや仲居さんが、近在の農家へ毎日のように買出しに行って不足分を補ったということです。

 昭和20年3月10日の東京大空襲により、戦況がますます厳しくなる中で、当館への湊海軍病院の疎開が決まり、児童たちは3月25日から1週間で荷物をまとめて近在のお寺へ再疎開し、今度は、傷ついた兵士、病気の兵隊さんたちでよろづやの中は一杯となりました。
「りんごの花  ここも白衣の国となり」
荻原井泉水
 よろづやへは、十五世の市村羽佐衛門や、後に経団連会長を務めた植村甲午郎さんが家族とともに疎開されました。
特に羽佐衛門丈は、疎開中の昭和20年5月6日に急死され、最後の日々を過ごした当館菊の間はゆかりの部屋として、今でも毎年命日に故人を偲ぶファンの方々が訪れます。
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信州湯田中温泉 よろづや本館 松籟荘
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