当館の歴史は、江戸時代寛政年間(1789〜1801)頃にさかのぼります。
その頃は本郷組(現大湯組)が旅籠組合の主体であり、それぞれ旅籠営業の発展に協力していたことが、古文書に記されております。
「寛政元年(1789)12月覚」には、本郷組12軒の連判証文により、安永2年(1773)の角間川氾濫によって流出した34軒の人々が、上段の新田地区へ移住するにあたって、居住先の斡旋をし、大湯のあまり湯を分湯したことが書いてありますが、その中に
「萬屋傳蔵(よろづやでんぞう)」
の署名を見ることができます。
以上の事から、よろづやの湯宿としての創業は寛政年間、約200年前と推察されます。
当時の湯田中は真田松代藩の領地でありましたが、代々のお殿様は「御湯治」がお好きで御本陣の白銀屋(現在も御殿の間が残っている)に泊まりましたが、大勢の時は「御境廻り」の名目で、家臣を率い、湯田中の各宿に分宿しました。
記録によると、延宝4年(1676)、3代の
殿様幸道
(ゆきみち)とその母君が当地を訪れています。
下って寛政11年(1799)には、
7代幸専
(ゆきたか)以下572名が湯田中・渋・安代・佐野の旅籠に分宿しました。
文政2年(1819)7代幸専以下240名、文政3年(1820)7代幸専以下263名、その後も
8代幸貫
(ゆきつら)、9代
幸教
(ゆきのり)に至るまで、歴代の藩主の「御境廻り」が続きました。
江戸時代の湯田中は、松代藩の湯治場としてのほかに、北国街道の発展に伴い、善光寺詣での後の精進落としの湯として名を馳せました。
今とは異なり、歓楽的な温泉地として賑わっていたようです。
文化文政時代、湯田中をこよなく愛した
俳人小林一茶
は、その著「田中河原の記」の中で
「湯のある所は山陰ながら糸竹の声常にして老いの心も浮きたてさながら仙窟に入りしもかくやあらんと覚ゆ」
と、当時のさんざめきの有様を書いております。
●信濃國湯田中温泉圖
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