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明治時代になってからは、交通機関の発達にともなって湯治客が増えました。 それまでは近郊近在のお客様がほとんどでしたが、明治26年の信越線開通による豊野駅からの馬車・人力車・乗合自動車によって東京や関東方面のお客様が数多く見られるようになり、特に「トテ馬車」が<トテ><トテ>とラッパを吹きながら馬車を走らせたので、地元の人々から大変親しまれました。
昭和2年に長野電鉄が、長野-湯田中間を走るようになってからは、さらに広範囲からのお客様が訪れるようになりました。 昭和6年から7年にかけて、作曲家の中山晋平(1888〜1952)と、詩人の西条八十(1892〜1970)が、湯田中小唄を作るために当館を訪れています。
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●明治13年発行の湯田中宿場図 |
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当時は、近在に働く場所も少なかったため、学校教育を終えた若いお嬢さんたちが、行儀見習いのため旅館で大勢働いておりました。 写真にも見られるように、十代そこそこのごく若い従業員もおりました。
よろづやは、明治・大正と時代の進展に適合するよう施設の整備を図ってきましたが、昭和にはいると世界恐慌の影響で景気が悪化、国際情勢も緊迫、満州事変(1931)に次いで日華事変(1937)といった世相を反映し、旅館の需要も停滞しました。
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●中山晋平を囲んで 5代目館主・女将・従業員達(昭和6年頃) |
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よろづや先々代の館主小野博(1891〜1975)は、そんな時代ではありましたが、思い切って新館の増築を試みました。 それが昭和14年に完成した現在の松籟荘です。
木造の三層数奇屋建築1951平方メートルであり、世間の注目を集めました。 総投資額は10万円(今の価格にして3億円)、主要材料の杉や松は、越後から仕入れました。 建築にあたった棟梁は地元出身の宮大工、今井定次郎です。 |
●松籟荘の棟梁 今井定次郎 |
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●松籟荘建前時の写真(昭和13年) |
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